ひとさじの砂糖とうたかたの日々の泡

一匙の砂糖に似たささやかな幸せや、 取るに足らない日々の泡の記録。

再び世界に出会う物語 // 『かぼちゃ、なんきん、ぱんぷきん』

第1回文学フリマ京都にて、お隣だった明日見 雨さんの作品。
表題作「かぼちゃ、なんきん、ぱんぷきん」と「窓ガラスにこつんと」の2作が収録されています。

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◎「かぼちゃ、なんきん、ぱんぷきん」

『同じ瞬間に同じ場所から同じ角度で同じものを見て、まったく同じ事を考えるってことは不可能なわけで、それが個々の世界を生きるって事だと思うの。だから元来、生きるってことは孤独なことなんだと思うの』(p.45,l.9-12)

 産まれてすぐ両親を失った私は、祖母と、祖母の養子であるチヨちゃんと3人で暮していた。祖母が亡くなった朝、チヨちゃんが自分の本当の姉であることを打ち明けられる。何故今まで黙っていたのか、何故今伝えるのか——そう問う私にチヨちゃんは、祖母の葬儀が終わるまで待って欲しいと頼んだ。
 幼い頃交通事故に遭って腰の悪いチヨちゃんは家に篭って絵を描いたり、オブジェを作って暮している。祖母の物を処分して広くなった家に、ふたりはチヨちゃんの絵を飾る。それは黒い斑点が散りばめられたかぼちゃの絵だ。直島に実際にあるオブジェの絵だという。祖母の遺影の横に飾った絵をふたりで眺めていると、直島に行こう、とチヨちゃんが言い出す。直島で、約束どおり全てを話すと——。

 幼い子どもにとって、世界はひとつだ。
 自分が中心に据えられ、大陸も、空も、自分を中心に回る。
 きちんと母乳を出す乳房は“良い乳房”だが、母乳の出ない乳房は“悪い乳房”だから容赦なく攻撃して良い。そうすればきちんと母乳を出す“良い乳房”が与えられる。
 私の喜びは皆の喜びであり、私の笑顔は皆の笑顔だ。私が好きな人は間違いなく私のことを好きで、私の悲しいことは誰にとっても悲しいことだ。
 自他の境界がない未分化な世界は、その言葉の通りひとつでしかあり得ない。

 だが、次第に子どもは気付き始める。
 私の喜びが誰かの悲しみになることを。私の笑顔が誰かの苦痛になり得ることを。
 私の好きな人が私のことを好きとは限らず、私の悲しみを喜ぶ人がいることを。
 そこで子どもは初めて孤独に出会う。

 作中でAと呼ばれている“私”は、孤独を抱えている。
 産まれてすぐに両親を亡くした彼女は、祖母に引き取られて育つ。児童養護施設に勤めていたという祖母がきっと温かい人だったのだろうということは、“私”の語り口を聞けば推測出来る。だが、だからと言って私が孤独ではなかったかというとそれはまた別の問題だ。そして胸の内側に孤独を飼ったまま、“私”はその祖母すらも喪うこととなる。
 そんな“私”に手を差し伸べてくれたのが、チヨちゃんだった。彼女は自らの罪を告白することで、“私”の孤独に寄り添おうとする。大切な“私”に嫌われるかもしれないという、新たな孤独を覚悟した上で。

 これは孤独の物語だ。
 ひとは孤独と対峙した時、初めて世界と出会うことが出来る。
 それはしばしば、冷たくて、理不尽で、悲しい。
 時として、世界と出会うことを拒んでしまうほどに。

 でも、チヨちゃんが言うとおり、切り取り方ひとつで世界は変わる。

 こんなにも柔らかく、温かい孤独の物語が存在するのならば——。
 笑顔と祝福で迎えられる世界との出会いもまた、あるのかもしれない。
 

◎「窓ガラスにこつんと」

『問題は右目だ。右目は黒に近い濃い赤。それは黒ずんだ林檎飴を思わせるような瞳だったのだ。甘い蜜のような瞳の輝きは、今にも溶け出しそうなほどつやつやとしていた。』(p.71,l.13-15)

 第24回岐阜県文芸祭にて秀作賞を受賞された際、選考員の方に「作者は女性だと思っていた」と言われたそう(明日見 雨氏は男性)だが、その方の気持ちがとてもよく解る。
 思春期特有のどうしようもない自意識を抱えた女子高校生の視点を、ここまで瑞々しく、痛々しく描くことの出来る男性を私は知らない。

 高校の入学式で、“私”は島津という男性教師に一目惚れをする。若く、見栄えの良い島津は女子生徒たちの憧れの的だ。だが“私”は島津をものに出来るのは自分に他ならないと信じて疑わない。告白の情景も、島津が受け入れてくれるところも、その先までも、いっそ鮮やかなほどに思い浮かべることが出来る。
 だがそれから3ヶ月ほど経ったある日、“私”は江島というクラスメイトのことを意識し始めることとなる。空席が沢山あるはずの放課後の図書室で、何故か“私”の向かいの席に座った江島は、『パノラマ島奇談』を読んでいる。その彼の瞳は右目だけ、傷んだ林檎飴のように赤かった。

 二年の夏、友人たちに江島との仲を噂されていたと知った“私”は、必死にその噂を否定する。根暗な推理小説オタクである江島と付き合っていると見做されることは、“私”自身彼と同程度のスペックであると周囲から認識されていることにほかならない。そんな“私”の中心に据えられているものは、自らですら持て余しそうな自意識だ。作中でも“私”はその直後、“私には島津のような誰からも憧れられる人が釣り合うと、無意識に思っていた”と気付いたことに動揺している。

 もし私が“私”や江島と同じクラスだったなら、私は江島のことをきっと好きになるだろう。恐らく“私”とはそう仲良くなれず、そして島津のことは好きにならない。
 女子高校生だった私には若くて格好良くて誰からも好かれる男性教師に価値は見出せないだろうし、学校という小さな社会で出来るだけ目立たず、目に見えないルールの中をきれいに泳ぎ切ろうとする“私”と本音で話すことは出来ないだろう。図書室で推理小説を読み耽り、独自の価値観を手に小説を綴る男子生徒の方が余程魅力的だ。
 みんなが良いと思うものを、崇め奉らない私。
 ひとと違うことに、優越感を抱く私。
 彼の魅力が解らないなんて、みんな馬鹿だと見下している私。
 それは本質的に“私”の自意識と変わりはしない。
 だから私の周りにもきっと、窓ガラスがきっちり張り巡らされている。

 高校生の頃の自分がこの物語を読んだら、どう感じるだろうかと考えた。
 自分は特別だと信じたくて、でももどかしいほどに凡庸で、その他大勢のスケールからはみ出すことなく、結局は安寧と過ごしていたあの頃。
 もうあの頃のジリジリするような切実さを取り出して眺めることは出来ない。
 だがこの物語は、フラッシュバックのような鮮やかさでもう一度あの頃を眼前に展開してくれる。
 狡くて傲慢なくせ、鋭敏で弱い——透明な窓ガラスの内側で喚く私の姿を。