1冊では到底語り尽くせぬ『人生を決定付けた書籍』 -後編-
今週のお題「人生に影響を与えた1冊」最終日。
お伝えしていた通り本日は後編、「私の人生を決定付けた書籍」のご紹介です。
昨日の記事はこちらからどうぞ。
小さな頃から読書好き、とは言いつつも小学校低学年からきちんと文学作品なるものに触れていたかと言われれば全くそんなことはなく。
学校の休み時間ごと、図書室へ向かって読むのは『怪人二十面相』や『黄金仮面』などのポプラ社の少年探偵シリーズ。
学校が終わって家に帰ったら祖母と一緒に『特捜最前線』を楽しみに見てたぐらいなので、昨日挙げた『金田一少年の事件簿』にハマる素養はもうこの時点であったということなのでしょうね。
『占星術殺人事件』
『金田一少年の事件簿』をきっかけに知ったこの本によって、私が本格ミステリ好きの道を歩む運命が決定付けられました。
肝心の内容はというと、この表紙の幻想的な雰囲気とは270度くらいかけ離れた、残忍でえげつない連続殺人事件の話です。
でも、もうそれがほんっとうに面白かった……!!
ページをめくる手が止まらないという体験をしたのは、恐らくこの本が初めてです。
息継ぎをせずに走り抜けるような読み方をして思ったのは、
「もっとこんな本が読みたい!!」
という初期衝動的な餓え。
当時はインターネットどころか携帯電話すらもまだ普及していなかった(学年に何人かポケベル持ってるレベル)ので、最初は図書館でミステリっぽい表紙や背表紙の本を片っ端から手に取ってはパラパラと中身を見、屋敷見取り図が書いてあれば当たり、というような探し方をしていました。
よくあれで探したな……と今になって思います。
ミステリ好きの友人を得てからはお互いに情報交換が出来たので、乱獲、って勢いで借りては読みまくる日々。
島田荘司氏は勿論、特に綾辻行人氏には本当にお世話になりました。
今でこそ読み返した時に「ん?」ってなることもなくはないですが、当時は読む作品読む作品全てに心酔していました。
(だが「人形館の殺人」、お前だけは当時から駄目だ)
館シリーズでは時計館が至高。ラストシーンが本当に好き。
でも数ある作品の中で私が一番好きなのは、『霧越邸殺人事件』です。
『霧越邸殺人事件』
或る晩秋、信州の山深き地で猛吹雪に遭遇した劇団“暗色天幕”の8人。
雪で遮られていた視界が突然解放された瞬間、目の前に突如出現したのは“霧越邸”という巨大な洋館。
安堵も束の間、外界との連絡が途絶えた邸で、彼らの身にわらべ歌になぞらえた装飾的な死が次々と訪れます。
大きな密室と化したアール・ヌーヴォー調の豪奢な洋館。謎めいた住人たち。
……と、あらすじを書いているだけでお腹いっぱいになりそうな、本格ミステリ要素満載のこの作品。
実はミステリ要素だけではなく、幻想文学的な側面も色濃く持ち合わせているのです。
これはこの作品に限ったことではなく綾辻氏自身の特徴なのですが、その色というか香りが一等強い。
好きな点について触れようとすればする程に、物語自身の核について触れざるを得ないので歯痒いのですが、間違いなく言えることは、
うつくしい物語
ということ。
それは、自分の価値観というものを改めて見つめ直してしまうほどに。
またわらべ歌として選ばれているのが愛してやまない北原白秋の「雨」なのも、私にはかなり意味深いものでした。
『邪宗門』
北原白秋、という詩人をいつどのように認識したのか、もう覚えてはいません。
恐らくは祖母が歌ってくれた童謡が切欠だったように思います。
自ら求めてこの『邪宗門』という作品集を手に取ったのは、14歳の頃。
漢字の使い方と、文字の並びと、読んだ時のリズムと。
それらにもうまさに“耽溺”としか言いようがない程、魅せられてのめり込みました。
仄暗くて、少し後ろめたいような。
夕暮れと、夜の間。
逢う魔が時。
屹度そんな刻に繰り広げられる、
耽美でありながらも生々しい、
うつくしく悪い夢のような光景。
何かいけないものを覗き見ているような心地すら覚えていたのですが、今になってもその感覚は変わりません。
この時の感覚が、この記事1番最後に出てくる作品に繋がるのだろうなぁと思っています。
勿論妖しげな詩だけでなく、牧歌的で穏やかな作品も多数残されているのですが、私にはやはり『邪宗門』のこの印象が強く、この北原白秋が好きです。
青空文庫で読めるようになっているのでリンクを貼っておきます。
ぱっと幾つか字面を見ただけで好みか否かは判断出来ると思いますので、お気軽に。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4850_13918.html
『書を捨てよ、町へ出よう』
『少女革命ウテナ』を経由して知るに至った寺山修司。
一番最初に読んだのは『寺山修司 少女詩集』だったように思います。
“言葉の錬金術師”という異名の通り、俳句や詩、小説や戯曲は勿論、写真家やら俳優、競馬評論家に果ては馬主で力石徹の葬儀委員長までしたっていうんですから、才能ある人はもう訳が解りませんね。
幾つかの詩集や名言集、戯曲を読んですっかりと心酔し、
「よし次は映像作品だ!」
と勢い良く『書を捨てよ、町へ出よう』の映画を見たのですが、初めて見た時はもう何をどうすればいいのかさっぱり解りませんでした。
「……え?
え?
……何これ本当に映画なの?」
って感想。
うら若き乙女(当時)が見るには衝撃的過ぎた。
内容なんぞ全く頭に入ってこない。
っていうかそもそも内容もほぼ ない 。
あったのは可哀想なほどにばらっばらに解体された、
“映画”なるものの姿だけ。
冒頭で主人公が観客に向かってこう言います。
「映画の中には何もないのだ。
さぁ、外の空気を吸いに出て行きたまえ」
まさしくそれだけを描く為の作品だったんだろうと解釈してます。
好きか嫌いかはともかく、強烈に衝撃を与えられたのは確か。
ほとんどショック療法だよ、これ。
でも、鬱屈としていて世界に不満だらけで何よりも自分のことが嫌いだったあの頃に、あのタイミングで見てよかった映画だと思っています。
余談ですが、私は将来猫を飼ったら名前を「けむり」にする予定です。
『甘い蜜の部屋』
ラストを飾るのはもうこの作品しかありません。
日本を代表する文豪森鷗外の溺愛を受けて育った娘、茉莉。
彼女が60歳になってから10年かかって書き上げたこの作品は、己の美意識を唯一絶対の指針として持ち続け、殆どその“美の世界”に引き篭もっていたからこそ書けた作品なのだと思います。
息苦しさを覚えるほどに緻密でなめらかな肌を持つ、蠱惑的な美少女モイラ。
自らに向けられる愛情を当たり前のように啜り、無邪気な肉食獣のように喰らうその姿には何の計算も打算もない。
薄ぼんやりと目の前の景色を写すだけの、透明な、無垢なる双眸。
艶のある鳶色の髪と、みずみずしい薔薇色の脣。
丸く硬い小さな肩と、白く細い首筋。
己と、唯一無二の存在である父親以外の何物にも心を動かされることない少女は、己が魔性に狂って破滅していく男達を、まるで燭台の火に炙られて死んだ羽虫程度にも気に留めない。
ただ興味があるのは己と、父親。
それだけ。
完全に閉ざされ、外界から切り離されたひとつの幸福なるお話。
それがこそが、父と娘の『甘い蜜の部屋』。
成長も、苦悩も、友情も、別離もない。
ここにあるのはただひとつ。
“永遠”だけです。
人によっては読み始めて数ページで気分が悪くなるのではないかと思うくらい、内容も文章の装飾も濃密です。
まさに琥珀色の蜜を飲まされるかのよう。
なのに、気がつくといつの間にかどっぷりとその琥珀色の蜜の瓶に閉じ込められてしまっているんだよなぁ。この感覚は本当に不思議。
抗いがたい、本文中で言うところの“魔のようなもの”の魅力のなせる技でしょうか。
『邪宗門』でうっすらと感じていた、何か暗闇の奥底で緩やかにのたうつものに絡め取られるよう。
『甘い蜜の部屋』は耽美の極みのような作品ですが、数多く残されたエッセイは打って変わって非常に軽快で面白いのでこちらもおすすめ。
『ドッキリチャンネル』には所ジョージ氏やタモリ氏まで出てくるので、
「同じ時代を生きていたことがあるのだなぁ」
と、何だか嬉しくなる。
この辺のエッセイではテレビに向かって悪態をつくお茶目な“ばあさん”感があって親しみやすいし。
夢見る夢子ちゃんで、生活能力が皆無だった(室生犀星が森茉莉の家に遊びに行ったものの、目の当たりにしたあまりの貧乏暮らしに、家に帰った後彼の方が心配して夜も眠れなかった)そうなのですが、そこはお茉莉さん、窓辺に飾ったコーラの空き瓶を眺めては『ボッティチェリの青』とうっとりしたりしていたようなので寧ろ犀星の方が気の毒になります。
茉莉には自らの美意識と想像力が、何よりもの“ひとさじのお砂糖”だったのだろうなぁ。
見習いたい。
まとめ的なもの
さて、2日に渡ってお送りしてきた自己満足記事もいよいよまとめに入りました。
漫画やアニメで“その当時の自分自身の価値観”を破壊されたのち出会った作品たちが、今の私の趣味・嗜好・考え方の方向を決定付けてくれたように思います。
影響を受けた作品も、ただただ大好きな作品も、まだまだ沢山あるのですがそれは今後に場所を譲ることにして、今からは他の方々の「人生に影響を与えた1冊」を拝見しに行ってこようと思います。
いやー、読書って、本当にいいものですね。
では。
さよなら。さよなら。さよなら。